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マンガ「火の鳥」手塚治虫245910

巻番号は読み終わった順。発行時に全巻読んだがあらためて読み直した。

2 未来編
タマミとまさととロックと猿田博士
人類は5つの地下都市で暮らしていた。マサトは禁止されているムーピーのタマミと幻想ごっこをしていちゃついている。猿田博士は消滅した動物を創作したが試験管のなかでしか生きられない。5つの都市が一斉に核爆発で消滅した。マサトは火の鳥から死なない体をもらう。人類は消滅した。死なないマサト。タマミを作る。「アタシノ過去がアタシノ未来が鼓動するの脈打つのよソレハ青いため息の中ですぽんじのようにハネマワルノヨ」「ホホーホホオ歩ホピピピピホホピピピピーピピューピュー」作られたばかりの全裸で跳ね回るタマミ。オジイサマジイサマジジイと呼ばれてマサトは怒る。ペットとして作ったタマミは笑顔をみせてくれればいいのに。こいつも失敗だ。破壊する。破壊されたタマミが山になっている。タマミが自由奔放に跳ね回る場面が一番好きだった。ムーピーのタマミは従順で控えめで影も踏まずな女性に描かれていたが、狂った電子頭脳のタマミのほうがかわいい。マサトはその後も生きて、地球に生物が現れるのを見る。ナメクジが地球の覇者になった。争いでどちらの種族も死に絶えてしまう。知識と文明をもったナメクジは「死にたくない、死ぬのがこわい」と言って溶けていく。「なぜ命を惜しむのだ、おまえたちの祖先は愚痴も言わずに死んでいったのに」雨が降り続き、暖かくなり、哺乳類の出現を知る。何億年も生きマサトは宇宙の一つになってしまっている。火の鳥が現れる。

4 鳳凰編
仏教を国教とし政治の道具になっている。漁師の町で生まれた子供は生まれた当日に「山ノ神に見せに行く」父親に抱かれがけをのぼり転げ落ち父は死んだ。五体満足で生まれてきたのに神に見せに行くという迷信から左手を失い右目を失い顔にあざを作った。神についての愚痴は語られない。成長した我王は世を憎み人を憎み村人を殺して逃げる。強盗殺人の旅だ。彫り師茜丸の健康な両腕に嫉妬と怒りをこらえきれず利き腕を斬りつける。左手でも彫れると再起する茜丸、茜丸は我王と対照的に他人をうらやまない憎まない好青年として描かれる。我王は僧侶にイノチを救われ旅に同行させられる。途中、茜丸と出会う。「俺を殺してもよい」と目を閉じる我王に対して茜丸は、俺の慢心を砕いてくれた君に感謝しているとまでいい、許す。僧侶は我王の中に人間らしい心と、芸術的な才能があることに気づいていた。石に、慟哭の様を彫り付ける、我王の才能が目覚めた。茜丸は時の勢力者橘諸兄に命令された鳳凰を製作しようとするが見たことがないので作れない。首切りの刑を助けたのが吉備真備だった。吉備真備の下で鳳凰を製作し茜丸の名声は上がった。鬼瓦を製作することになり茜丸と我王の競争になった。あきらかに我王の勝ちである、だが有力者に飼われている茜丸に票が集まる。屈辱の茜丸。この男はわたしの右手をだめにした。同じ罰を与えてほしい。かっての好青年は権力にとりこまれ、嫉妬と保身に身を任せる小汚い男になっていた。右手を切り落とされる我王。
4巻では、鳳凰を探すたびの途中で茜丸が出会うブチという女の子がとてもかわいい。うそつきで泥棒で売春婦なこの女は茜丸をだましてひどい目にあわせるのだがやがてどちらにも大事な人となる。素っ頓狂で自由奔放な女の子は大事にはされないが最後まで行きぬくキャラクターであることが多い。「ブッダ」のミゲーラであるとか。我王の恩人である僧侶は即身仏となる。なぜなんのために無駄なことを。号泣する我王。生き物は必ず死ぬ。手塚さんの哲学が生きている巻である。

5 復活編
時系列が直線ではない。未来の話。事故で死亡したレオナが人工知能で生き返る。生命体を認識できずロボットのチヒロに恋をする。事故が他殺だったという記憶が戻り原因を調べに行く。火の鳥の血を採取し血をどこかに保管したために大もうけをたくらむ親族が殺人依頼したのだ。体の大半がロボットになりいったんは死亡したためにレオナの戸籍はなくなっていた。チヒロは会社の持ち物、管理されていて自分のものにできない。一緒に逃げよう。山にぶつかり雪に埋もれるふたり。もぐりの惑星間貿易をしている連中が発見した。ボスの女は年寄りだが若い体をもっている、それも限界だ。レオナの肉体にほれる。レオナの肉体の中にボスの脳が移植される。レオナの人工知能は生前の記憶とともにチヒロの中に移植される。レオナとチヒロは一体のロボットの中で一緒になれた。チヒロはきゃしゃな人間型だったがレオナの脳は大容量で入り込めなかったため筒型のロビタに外観は生まれ変わる。ボスは適合がうまくいかず苦しみ死ぬ。ロビタとなったふたりは家庭用ロボットとして働く。人間臭いロボット、古い時代の人間の遊びを知っているロボットだった。ロビタは人口脳ごとコピーされて量産される。大量生産されるロビタの最初は一体だったのだ。ロビタが罪に問われて解体されたとき、すべてのロビタが自殺する。月につれてこられたロビタは死ぬことができなかった。人間の記憶がある、人間であったことを証明するために「ご主人様」を殺害する。ロボットやアンドロイドは決して人に手をあげれないようにプログラムされている。殺せるのは人間だから。月は無人になった。電気系統をとめて転がっていたロビタを目覚めたのは300年後、猿田博士がやってきたときだった。
レオナが、乱暴で野心家で自分勝手で共感できない主人公だった。チヒロを好きなのはほほえましいが。純愛に終わる男女のエピソードが多いけれど、レオナみたいな乱暴モノが純愛、そうならなければ物語りにならないからだけど、現実的ではない。ストーリーはよかった。ロボットたちが家畜のようにかわいそうだった。チヒロがレオナを好きになるのはなぜだろうか。好きだ好きだといわれたからだろうか。ロボットに、人を好きになる理由が見当たらない。人の言葉を理解するロボットならば好きの意味も理解して好きの感情を習得していくんだろうか。好きは、生殖の本能から生まれる欲求なのではなくて、言葉から生まれる感情なんだろうか。そもそもなぜ生きるのかというテーマは5巻でも普遍的につづられていたが、生きると好きは併走していると感じられた巻だった。





9 生命編 異形編 
短い話がふたつ、軽い。アマゾンのレビューをみたら5星だったので見直した。つまらないような気がしてもレビューが高得点だとしまったという気になる。ちゃんと読めてなかったのかとか鈍かったのかとか。友達関係でも、苦手だなとか感じ悪いなと思う人が他の人から好かれていたりほめられている人気者であることがわかると、自分の受け止め方がまちがっていたのかとかくよる(くよくよまよう)ことがある。逆はない。自分がいいと思った本やCDがけちょけっちょにけなされていると、「ふふんっ」という気分になる。鼻高々だ。よいものはあたし一人がわかればいいのだ。友人関係も、仲良くしてる人の悪口を吹き込まれても、ぜんぜん平気。なんだけれど、これだ!とほれこんだものがよそからの悪い話やいやな話をきいてすぐに信頼がゆらいでしまうものがひとつだけある、競馬だ。いろんな媒体を見れば見るほど悪口ばかりを拾ってしまう。弱い。で、よその評判のよい9巻だが、比丘尼というのは長生きする伝説でもあるのか。耳目流麗な若侍(実は女)左近之介は父親を憎んでいた。戦いで人を殺して成り上がってきた残虐な男だ。跡継ぎとして男として育てられた。父親は病気でしにかけている。比丘尼に病気を治されては困ると比丘尼を殺しに行く。殺す。殺したとともに時間の輪が閉じる。30年前に戻り、30年間左近は比丘尼に代わって傷ついた人々を治す。30年後、父親の病気を治しに呼ばれる。比丘尼は左近之介だった。異形編、クローンを標的にハンティングイベントがTV番組で人気になる。俺は人間だと逃げる。殺されるクローンたち。逃亡する男はジュネという女の子と知り合う。ジュネはおばあちゃんの面倒をみている。おばあちゃんはこわれかけたロボットだ。活動が停止する。田舎に逃げる。農家から盗みをしたジュネは撃たれる。町の病院に連れて行きTV局にクローン狩りをやめるように言うが聞き入れられるはずはなく、クローン工場を爆破する。男も死ぬ。クローン狩りはさすがに極端だけど、クローンは悪くないと思う。優秀な人間だけの社会が可能なのかもしれないし老人や子供や女が生きていなくていいかもしれないなら強者理論が好きな人には素敵な世界だろう。どうぞ。

10 太陽編(上)
白村江の戦いに日本が援軍を送った時代。高麗のヨホウショウ一族のハリマは唐軍につかまり顔の皮を剥がされオオカミの頭をかぶせられる。皮は一体化しオオカミの頭をもった人間になる。冒頭から衝撃だ。助けたのは陰陽師でもあり魔女とも呼ばれる愉快なババアであった。負け戦の倭の将軍は帰国前に部下に深手を負わされ倒れている。唐の追っ手から逃れるためオオカミ男とババアは将軍を助け倭に向かう。日本は仏教を取り入れ国分寺建立を推進している時代、大海人皇子など出てくる。オオカミ男はいぬがみのすくねだ。ばあさんの薬学で治る病人たちや将軍の後押しもありすくねは偉い人になっていく。仏法に帰依しないことから役人と悶着をおこし殺してしまう。一方、すくねは同じ夢に悩まされるのだった。未来社会で、火の鳥の羽を手に入れた教団は人類を光と陰に分別した。シャドー族に振り分けられた人間は一生を地下で暮らす。ドブ鼠の生活。光一族を殺す使命のハリマことスグル。殺しの首謀者は猿田博士だ。日本の歴史と未来の歴史がどう交錯していくのか。下巻に続く。カワハギから始まり首切り殺し合い撃ち合いわざと階段から転げて大怪我など、暴力と痛みが満載の巻だ。子供の頃は平気で読んでいたし手塚さんのマンガはマンガとしてしか見ていなかったが、現実に世界のどこかで起きている無情であり理不尽であり痛みである、読み手(自分)はとしとったなと思わざるを得ない。成長したということにしておくか。
by kumaol | 2015-08-15 09:59 | 雑記