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本「バック・ブラナマンの半生」

馬と共に生きる「バック・ブラナマンの半生」バク・ブラナマン著 The Faraway Horses 文園社

裏書より
バックは伝説のカウボーイ、ベストヒット小説・映画「ホースウイスパラー」のモデルであり、全米で開かれる彼の講習会には年間何千人もの参加者がある。
2011年、バックの半生は映画化されサンダンスフィルムフェスティバル、北米ドキュメンタリー視聴者賞を獲得した。本著はその原作である。
幼児期虐待され厳しい青年期を乗り越え、馬へのアプローチの仕方では驚異的な成功を成し遂げたバック・ブラナマンは、善き指導者であり心理学者でありカウボーイそのものである。実在のホースウイスパラーとして馬を劇的に変える神秘的な能力を持ち合わせている。そして、その理解力、同情心、尊敬心をもって人をも変える。
アメリカの実話であり価値あるこの伝記は、心の奥底から、豊かに、馬と人間の間に存在する調和と高貴さを記した生きた道しるべである。
映画「ホースウイスパラー」主演のロバートレッドフォードは次のように語っている。「バック・ブラナマンには、馬術家としての生まれ持った技量があり、彼と馬たちの間には服従ではなく信頼関係と相互の理解がある」
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映画「ホースウイスパラー」は「モンタナの風に吹かれて」の題名でヒットしました。スカーレットヨハンソンが美少女でかわいらしかったし、ロバートレッドフォードの理知的で温かみのある風貌ははまり役だと思います。映画については最終章で語られていて、映画を見ていたので興味深かった。
本自体は、あっさりしてる。幼児期の虐待や育ての親に育てられたなど、自立する前の話はあっさりしている。小説だとねちねちと心理分析など織り込んで引っ張るんでしょうが、こんなことがあった、こんなこともあった的に書かれている。子供にとって家族というのは最初の世界でそれしかない世界だと思うので、虐待かどうかわからない。ぶたれるというのが日常になってしまって、だけどこんな世界はいやだと思っている。この時期の話を書いてあるのは、馬にもいえることだからだろうか。馬も、最初の人間との接触で幸せな馬になれるかどうかが決まるという。虐待を虐待と思わずに、馬にはこうするものだというどこからもってきたかわからないような常識で馬に接する人々、まだまだ牧場主にはそのような人が多かったという。力ずくで立たせようとする力ずくでじっとさせる。それ以外の接し方を知らないからだ。そのようにして無口をはめられたり睾丸をとられたりした馬は、人と接するたびにいやな思いをすると学習する。だからなにをさせるにも思い通りにならなくて悪循環になるのだ。
投げ縄のショーで全国を回った少年期、青年期にも投げ縄やカウボーイのショーで生計を立てていたがあまり成功しない。金持ちの娘と結婚したが娘は親の顔色を伺って親の影にびくびくするコドモだったのでうまくいかず離婚する。離婚の際には借金して購入した牧場や馬たちなどみんな取り上げられてしまう。牧場で仔馬の調教をする。やがて全国の仔馬の持ち主たちに仔馬の調教を教える。講習会で出会う非常識な馬主の話などひどい実話がいくつかのっているが、なんとなくどこかで読んだ気がする。いろいろな媒体で、小刻みに紹介されていたのかもしれない。
馬車レースの男がうまくいかないことに腹をたて馬を木の棒で打ちのめす。馬は気を失う。死ぬことはなかったが獣医にもどうすることもできず結局安楽死させた。動物虐待で裁判になる。罰金や刑務所に入ることの代わりに、獣医と裁判所はバックブラナマンの講習会に参加することを義務付ける。木の棒の男はバックの講習会に毎回出席し(義務である)、涙を流して自分のしたことを後悔するのだ。
せっかくよい馬に変わったのに、持ち主の考えが変わらずに、自分が去ったあとまた同じように(前のように)取り扱われて不幸になった馬のことを思い返す。すべての馬は幸せになれる。人しだいで。

「その代わりに」と誘導する
自分が(人が)腰まで砂に埋まっている状態を想像してみるといい。足が動かない。他人が頭をふんづけていったり指を踏んで行ったり蹴ったりしていったら、どれだけ不安だろうか。蹴ったりかじったりする馬は不安でこわがりなのである。すでに人を蹴るような馬になっていた場合、蹴ったことを怒るのは遅い。蹴る前の動きを察知して違う動きに変えるべきなのだ。蹴ろうとする動きを前に動く推進に変える、ゆっくり進ませたり速く歩かせたりの指示を追う様に変える。馬の考えを違う方向へ誘導する。それには先を見る目を養うことと、タイミングが大事だ。ダメだというのは罪ではないがダメだだけだとやる気をなくしてしまう。自信を失う。ダメだ、代わりにこれをやろう。違う方向に誘導し、不適当な行動をしようとする気持ちを変えることができる。

問題のある馬、虐待されてきた馬と対峙するとき、同情心は必要だが同情心が過ぎると、馬と同じ心理状態に陥ってしまって同じように不安になり馬を導けなくなる。
馬が怠惰だといわれる場合がある。馬は監禁されているのだ。監禁されて自分ではどこにもいけない。どこにもいけないがどこかに行っている空想をしているかもしれない。人と同じように。どこにも行けず耐えるしかない人は空想で日々をやり過ごすことがある。馬もそうかもしれない。馬がそうして空想しているとき、彼らは目の前の仕事に乗り気ではない。怠惰であると言われる。多くの欲求があるにもかかわらず欲求が満たされていない。心理的にちがうことをさせてやるのがよい。

講習会に来る人は消極的な人が多く、特に女性、彼女たちは馬にかじられたり馬鹿にされた態度を取られているが、夫からもつきとばされたりされているのかもしれない。人が主体性を持ち、目的をもって馬と接することを学ばなければいけない。

馬はよいことと同じくらい悪いことも吸収してしまう。扱いかねる馬を放牧地にほったらかしにしておくと馬は自身を失った状態で放って置かれた経験を積む。次に扱うときは放置したときよりもっと悪くなっている。馬をよい状態にして放っておいたならば馬は前向きに吸収し次に乗るときは前よりも良くなっているのである。

馬の問題と人の問題、「知ってる」「読んだことある」「聞いたことある」ことばかりかと思います。やさしい文章で語られていますが、本当にその通りであり、乗っているとき、乗り終わったとき、同じ意味のことをよく言われる。乗馬をする人には馬をしあわせに導く義務が、それぞれ少しずつ受け持ちがあるのではないか。1レッスンだけ借りている、レッスン料を払ってるんだから、ではなく、その馬の一生のうちの40分間をしあわせにしてやりたい。馬の一生に関わっているのだと思うと、なんだかおそろしくも感じるし逃げないでがんばろうという気にもなる。馬はひとりひとり個性があって、それぞれの痛みそれぞれの幸せを感じている生き物なのだから、いつも透明な心で正直に向かい合わなければと心を引き締めました。
すごい感動やものすごいエピソードはなく、平坦な語り口でさらっと読み終わってしまうが、一行一行を抜き出すと含蓄あることが書かれている。

by kumaol | 2015-10-12 13:44 | 雑記